整体、カイロプラクティックの森迫柔道整骨院 - 骨盤・脊椎矯正、腰痛、肩こり、ムチ打ちなど。 - 大阪府寝屋川市
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森迫院長のページ

キリシタンと茶道

悲しみのクルス四条畷のクルス 大正12年、四条畷南野向之町の農家の壁に、塗り込められていたクルスが発見され、保存状態は良好でした。当時、農業補修学校教諭がクルスを持っている生徒を見て、「大切なモノだから、子供が玩具にするモノでは無い!」と、保管する事になりました。美術教師でしたが、北河内の歴史解明に尽くされキリシタン遺跡も調査されました。これは持ってません。

クルス妙見菩薩
クルス妙見菩薩 妙見菩薩は、剣と手印で十字(クルス)を切ります。この能勢妙見の能勢氏の家紋はクルスであります。妙見菩薩は金属に関係するそうで、古来からの金山の近くに妙見さんが多いのはそれ故でしょう。星田妙見宮には北斗七星の精が降臨した伝承がありますが、字は鐘鋳谷(カネイダン)と言うらしく、後に末裔が枚方の伊加賀に住み、日本一の鋳物師になります。これも持ってません。

 

ミサと茶道が似ている?
茶道14代家元の「不徹斎」と言うヒトは、ヨハネ・パウロU世教皇宛ての書簡に、「ワタシは京都のカトリック系の学校に通っていた頃を思い出します。既に茶道の心得があったので、チャペルでのミサに出席する時も、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけで無く、キリシタンの武士や商人を相手に千利休が語らう機会は多かった筈です。千利休の妻と家族も信者であり、ミサに関わっていたと思われます。但し千利休は、『キリスト教徒だ』とは公言していません。…茶道への新たな取り組みを模索していた千利休は、ミサと言う最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだとワタシは考えます。」と書いているそうです。
祈り織部蝋燭立 銘 祈り
<キリシタン大名やキリシタンの茶道具>
キリスト教伝播初期に於いて、教会内に茶室を設けて来訪者に茶を接待するなど、信者の司教と布教の為、茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも、「茶道は日本では極めて一般に行なわれ、不可欠のモノであって、我々の修院に於いても欠かす事が出来ないモノである。」
(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ「日本巡察記」)とあります。
全ての教会内に茶室を設け、来訪者に茶で接待する事を指示しています。当時のキリシタンと茶道は、「想像する以上に濃密な関係を持っていた。」と言え、作成された洗礼盤、聖水瓶、燭台、蝋燭立て、向付、皿などに十字架が明瞭に描かれました。
<千利休とミサ>
天文20(1551)年1月、「東洋の大使徒」と謳われるザビエルが、山口から堺を経て京都に向かい、船中で堺の婦人(ウルスラ)に洗礼を授け、彼女の身内、「宗全」と言うモノの家に泊めてもらいます。
紹介状をもらい、貿易に携わる日比屋了珪を訪ねました。
ザビエルやヴィレラ、ロレンソやダミアン、アルメイダやフロイスらが、この日比屋了珪の別宅、瓦葺3階建の聖堂(阿免寺付近)で洗礼を授け、日比屋了珪も洗礼名を「ディオゴ」と称し、日比屋了珪の聖堂から50mの所に今井宗久の屋敷があり、200mの所に千利休の屋敷があります。千利休の妻や娘もキリシタンでありました。
クルスこけしクルスこけし 男は胸に十字架、女は合掌し数珠(コンタツ)を持ちます。

千利休は、堺に於いて「宣教師の行うミサの儀式を見ていた。」と、考える方が自然ですし、ミサと言う「聖体尊血」の再現と、「聖なるモノ」と同一になると言う精神性に、己の進むべき道を見出し、自らの茶道の中心に、その所作を取り入れたのでは無いでしょうか?
そう見ると、千利休の考案した「躙り口」は、「狭き門より入れ」を想起させますし、世俗と切り離された茶室の空間で、身に着いた全てを捨て去り、ただ「亭主と客」と言うだけの関係の中で、茶道の亭主はミサの司祭の如く儀式を司っているように見えます。

千利休は、濃茶の所作に回し飲みを取り入れ、「吸い茶」と呼びます。(下項、茶道3)
「吸い茶」について、享保16年(1731)の序を持つ尾張藩士、近松茂矩の編になる「茶湯故事談」に、「昔は濃茶を1人一服づつに点てしを、その間余り久しく主客共に退屈なりとて、利休が吸茶に仕染めしとなん」とか、「草人木」に、「昔は1人に一服つづの故(茶入れより茶を入れる回数は)三掬い也。利休よりは、吸い茶なる故に猶定なし。」とあります。

茶道とミサの所作に於ける類似を超えて、「俗なるモノ」を超越し、「聖なるモノ」へと昇華するプロセスとしての同一性を見て取れるのでは無いのでしょうか?
クルス蝋燭立クルス蝋燭立 十字を透かし、火を灯すと向こうにクルスが映ります。
茶道に色々な点前があるように、ミサにも状況に応じた色々な作法があるそうです。それは「時代の趨勢により、幾分の変化が生じている。」と言う事も双方共に見られます。

ミサと茶道の所作に於いて、「双方がそっくり同じである」と言う訳ではありません。
千利休は、「ミサに於ける個々の所作を真似た。」と言うよりは、「ミサの所作に触発されたモノを、茶道の点前の流れに沿うように取り入れて行った。」と言うのが正確かもしれません。
あくまでも「印象としての相似と言う事に成らざるを得ない。」と言う事を前提に、どのようなモノがミサに於ける所作と似ているのか、ローマ・カトリック典礼書を基に見てみましょう。

<ローマ・ミサ典礼書の新総則246>
拝領前の祈りが終ると、主司式司祭は跪(ひざまづ)いて少し後ろに下がります。
共同司式司祭は、1人ずつ順番に祭壇の中央に来て、跪いてパテナ(聖体皿)の聖体(水と小麦粉だけで作られた「種なしパン(イースト菌の入っていないパン)」)を祭壇から恭しく取り、右手で奉持し、左手をその下に添えて、自分の元に戻ります。
但し共同司式司祭は、自分の元に留まり、パテナから聖体を採る事が出来ます。この場合、パテナを主司式司祭、若しくは1人か又はそれ以上の共同司式司祭が、共同司式司祭に順次に持って行くか、或いは次の者に渡して最後の者まで回すようにします。
クルス粉引食籠クルス粉引食籠(パテナ)
<ローマ・ミサ典礼書の新総則242>
ミサ1.ミサは、主司式司祭がパテナを持ち出し、主司式司祭から順に、パテナに盛った聖体を取り回して戴きます。
茶道1.茶道では、亭主が食籠(じきろう:菓子器)を持ち出し、主客から順に、食籠に盛った菓子を取り回して戴きます。
クルス茶碗(カリス)クルス茶碗(カリス)
ミサ2.ミサは、カリス(聖杯)を仕組んで運び出しをします。
茶道2.茶道では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで運び出しをします。
ミサ3.ミサは、カリスの飲み口を拭いて、次のモノに手渡します。
茶道3.濃茶の点前では、濃茶を戴いた(吸い茶)後、茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま、左手で懐紙で飲み口を拭いて、次の客に手渡します。
伴天連水盤伴天連水盤
ミサ4.ミサは、拝領が終わった後、パテナを拭き、帰って来たカリスに水を入れ、回して漱ぎ、水盤に捨ててから、カリスをプリフィカトリウム(清掃布)で拭きます。
茶道4.茶道では、帰って来た茶碗に湯を入れ、回して漱ぎ、湯を建水に捨ててから、茶碗を茶巾で拭きます。

聖体尊血の点前
キリストが磔刑される前夜の晩餐を模しますと、この晩餐はユダヤの行事「過越の食事」の前日の出来事とされ、磔刑後も弟子達に行われ、現在に至っては、「聖体礼儀」として継承され、最後のモノでは無いので、「最後の晩餐」とは呼びません。「聖体尊血」と呼ばれます。

「狭き門より入れ。」と言う「躙り口」から入り、世俗と切り離された空間で、身に着いた全てを捨て去り、ただ「亭主と客」と言うだけの関係の中で、「思い遣りの心、賓主互換の心」を交わします。

菓子  : 祈りの後、プロスフォラ(聖餅・せいへい)と呼ばれる黄金色の饅頭。
クルス三島俵パテナ(食籠)クルス三島俵パテナ(食籠)
菓子器 : 聖餅を入れるパテナ(食籠)。
ΙΧΘΥΣ(イクトス)(聖杯)ΙΧΘΥΣ(魚のカリス)(聖杯)
茶碗  : 「イクトス」と読みます。魚が「キリストの隠語」になるのは、「Ιησομζ Χριστοζ Θεου Υιοζ Σωτηρ (Iesous,Christos,Theou Huios,Sotor イエス、キリスト、神の子、救世主)」の頭文字が、ギリシア語の「ΙΧΘΥΣ(ICHTHYS) 魚」になる為です。
黄瀬戸南蛮燭台黄瀬戸南蛮燭台
燭台  : 南蛮人の女性を象った燭台。
マリア観音
マリア観音 
飾   : マリア観音。ワタシの育った北河内は、野崎観音が有名です。野崎観音は、戦国時代の1565年に全焼して荒廃していたモノを、青巌和尚が1616年頃に復興しました。
永禄5(1562)年、三好長慶幕下の武将73名に修道士ロレンソが説教をして、飯盛城で集団洗礼をし、この地域は河内キリシタンが大勢いました。この事は「フロイス日本史」に記述されます。
「野崎観音はキリシタンの寺である。」と言われ、東海林太郎の歌でも有名です。
花   : 百合。ガブリエルがマリアの受胎を告げて捧げた花。
無鹿花入
無鹿(ムジカ)花入 
花入れ: 無鹿花入。無鹿とは、「ミュージック」を意味するポルトガル語。大分で見付かった花入。
大友宗麟(普蘭師司怙) 大友氏21代当主(1530〜1587)は、南蛮貿易を盛んにして豊後の府内を国際交易の拠点とした。48歳でキリシタンの洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」と言います。天正6(1578)年8月12日。大友宗麟は、延岡付近に無鹿(ムジカ・宮崎県延岡市無鹿)と言うキリシタンの理想国家建設を着手します。農地の開発と共に神父や修道士達の宿舎を建設し、やがては豊後のように入院設備の整った病院や孤児を収容する施設もある一大福祉都市を目指したのでしょうか。
しかし耳川の合戦で島津軍に大敗し多くの重臣を失い、理想郷・無鹿は幻となりました。
1582年4月には、キリシタン大名としてローマに伊東マンションら少年使節を送ります。1586年秀吉に島津侵入の救援を大阪城で依頼して、九州征伐のきっかけを作ります。後に大正天皇より従3位下を追贈されます。
 
キリストが、ゴルゴタの丘で十字架に架けられて公開磔刑されたのは、西暦24年4月13日午前9時頃だと言われています。
翌日が安息日で、亡骸を十字架の上に残して置けない為、アリマタヤ出身の議員ヨセフ(キリストの弟子である事を隠していた)が、総督ピラトに「キリストの亡骸を引き取りたい。」と願い出て許され、十字架から亡骸を降ろしました。
そこへ「ニコデモ」と言うヒトが、没薬と沈香を混ぜた物を持って来て、降ろされた亡骸は香料を添えて亜麻布で包み、近くの園にあった岩に掘った新しい墓に葬られました。入り口には大きな岩が転がされました。
これらの様子を見守った婦人達として、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母を挙げています。

 光明ペルシャ花入 銘 光明 ●正倉院は、聖武天皇の49日にあたる天平勝宝8(756)年6月21日、光明皇后がその遺品を大仏に献上したトコロから始まります。正倉院の3つの倉の中で、特に北倉は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収める事から、早くから厳重な管理がなされ、宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会う事が必要とされます。
老神主高麗井戸茶碗 銘 老神主 ●崇神天皇8(BC90)年に「下鴨神社の瑞垣の修造が行われた。」と言う記録があるそうで、古い古い神主。

阿礼熊川御本茶碗 銘 阿礼 ●熊川茶碗は、口縁の端反りが特長です。上賀茂神社の拝殿前の立砂の上に松葉を立て、陰陽を現す秘儀、御阿礼(ミアレ)神事が執り行われ、向かって左の立砂の上には、神社にある珍しい三葉の松葉が挿され、右の立砂には、普通の二葉の松葉が挿されます。「阿礼」とは、神または貴人の再生、復活、誕生、そして降臨を意味します。

初花
龍泉窯天龍寺茶入 銘 初花 ●眞名の壷は聖櫃に収められました。
了珪曜変天目茶碗 銘 了珪 ●ザビエルやヴィレラ、ロレンソやダミアン、アルメイダやフロイスらが、了珪の別宅の瓦葺3階建の聖堂(阿免寺付近)で洗礼を授け、了珪も「ディオゴ」と称し、了珪の聖堂から50mの所に今井宗久の屋敷、200mの所に千利休の屋敷がありました。

了斎井戸茶碗 銘 了斎 ●目の不自由な琵琶法師であった了斎24歳は、天文18(1549)年、ザビエルが鹿児島に上陸した折りに洗礼を受け、「ロレンソ」となります。

宇留岸雨漏堅手茶碗 銘 宇留岸 ●宇留岸は、多くの日本人から慕われ、30年京都で過ごす中で、信長や秀吉などの権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者です。

左衛門尉赤楽変わり茶碗 銘 左衛門尉 ●左衛門尉は、柳生新陰流祖の石舟斎も恐れた達人、結城山城守忠正の長男です。永禄5(1562)年、左衛門尉の招きでヴィレラ37歳とロレンソ36歳が飯盛城にて布教し、三箇伯善守・池田丹後守・結城弥平次など70数名が洗礼を受けます。三好長慶も飯盛城下での布教及び聖堂を保護します。永禄7(1564)年、左衛門尉は日本で初めて聖堂を、四条畷市砂の寺内に建てました。
小堀遠州花入1小堀遠州2小堀遠州竹花入 銘 ほとゝぎ寿 ●小堀遠州は、天正7(1579)年、近江国坂田郡小堀村の豪族、小堀家の長男として生まれ、3歳の時、天正10(1582)年6月2日本能寺の変で織田信長が召されます。9歳の時、天正16(1588)年、太閤秀吉御成時の小性として給仕。千利休に初めて会います。16歳の時、豊臣秀長が召された後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく召され、文禄4(1595)年に豊臣秀吉直参となって伏見に移る事になり、ここで古田織部に茶道を学ぶ事になります。18歳の時、慶長2(1597)年、藤堂高虎養女を正室に迎え、19歳の時、豊臣秀吉62歳は1598年8月18日に五大老筆頭の徳川家康や、豊臣秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で胃癌で逝去し、これを契機に慶長の役は終了します。28歳の時、慶長12(1607)年、大徳寺春屋宗園禅師より「宗甫」の号を戴き、宗甫と名乗ります。宗甫29歳の時、慶長13(1608)年、徳川家康の居城、駿府城作事の功により、諸大夫従五位下遠江守に叙任され、この時から「遠州」と呼ばれるのです。
遠州33歳の時、慶長17(1612)年、名古屋城天守閣作事奉行。江月宗玩和尚を開山として大徳寺龍光院内に、孤篷庵(1643年に現在地へ移す)を創建します。遠州36歳の時、慶長20(1615)年、大坂夏の陣で家康の旗本に属します。この時、茶道の師・古田織部が71歳で自刀。遠州63歳の時、寛永19(1642)年、徳川将軍の茶道師範となります。遠州68歳の時、正保4(1647)年2月6日、伏見奉行屋敷にて召されます。伏見奉行在籍25年。信長、秀吉、利休、織部、家康、家光・・・多くの著名人と交流を持った茶人でした。

松屋鷺
天龍寺珠光茶碗 銘 松屋鷺 ●天正13(1585)年、古田織部41歳は、千利休の紹介で、奈良の松屋久政の茶会に臨んでいます。この時織部が久政を訪ねたのは、松屋三名物(松屋肩衝・存星の盆・鷺の掛軸)と謳われる、鷺の掛軸を見る為でした。
現在、松屋三名物の松屋肩衝は、島津家から出て根津美術館に。存星の盆は、盆田家に伝わる家宝だそうです。
村田珠光門下の古市澄胤を経て、松屋久政が所有した鷺の掛軸は、現在所在不明だそうです。
鳳凰周代水差 銘 鳳凰 
赤津浄瓶赤津焼浄瓶 
李朝扁平花入李朝扁平花入 
人事を尽くして天命を待つ西郷隆盛書 人事を尽くして天命を待つ ●明治10(1877)年8月2日の事です。西南戦争の西郷隆盛は、最終的には運を天に任せてしまったような気がします。「人事を尽くして天命を待つ」と言う故事が示しているように、自らが有らん限りの努力をし尽くした後に、運命や天命と言うモノが開け、そして導いて行かれるモノです。西郷は天命を試みたのでしょう。
ガレ茶碗1エミールガレ茶碗 ●シャルル・マルタン・エミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846年5月4日〜1904年9月23日)は、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アート・ディレクターです。

ガレ茶碗2エミールガレ茶碗 ●1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した月光色ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞します。

ガレ夏茶碗エミールガレ夏茶碗 ●1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い、高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たと言われます。

ウィリー・シングルトンケンプトン窯茶碗 ウィリー・シングルトン ●ペンシルバニア州ケンプトン村にあるウィリーさんの窯は、古き良きアメリカを彷彿とさせるような長閑な景色が続き、夜になると自分の脈が聞こえる程の静寂に包まれる。近くのホーク山の土は、太古に地殻変動で隆起した海底地質の土壌で、この土がウィリーさんの茶碗の骨格となっている。更にホーク山の周辺に自然素材を求めて、釉薬には木の灰、トウモロコシの灰、泥、糠灰等を好んで使う。でも、特に自然素材にマニックに拘ると言うのではなく、素材が「そこにあるから」、それに、「ドキドキするような結果が楽しみで」と言う自然体がウィリーさんの真髄だ。自然素材を使うと成功率が低く、ほぼ半分は徒労に帰します。日本独自の侘び寂び渋みの理解が浅いアメリカで、この日本の伝統を守り続けられる日本人的アメリカ人の作品は素晴らしいです。

花に小禽横山大観 花に小禽 ●横山大観(大觀、明治元(1868)年9月18日〜昭和33年(1958)2月26日)は、日本の美術家。日本画家。茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。代表作。「蕭湘八景」1912年 東京国立博物館蔵 ※重要文化財。「生々流転」1923年 東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財。