森迫院長のページ
キリシタンと茶道
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ミサと茶道が似ている? |
ペルシャ花入 銘 光明 ●正倉院は、聖武天皇の49日にあたる天平勝宝8(756)年6月21日、光明皇后がその遺品を大仏に献上したトコロから始まります。正倉院の3つの倉の中で、特に北倉は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収める事から、早くから厳重な管理がなされ、宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会う事が必要とされます。 |
高麗井戸茶碗 銘 老神主 ●崇神天皇8(BC90)年に「下鴨神社の瑞垣の修造が行われた。」と言う記録があるそうで、古い古い神主。 熊川御本茶碗 銘 阿礼 ●熊川茶碗は、口縁の端反りが特長です。上賀茂神社の拝殿前の立砂の上に松葉を立て、陰陽を現す秘儀、御阿礼(ミアレ)神事が執り行われ、向かって左の立砂の上には、神社にある珍しい三葉の松葉が挿され、右の立砂には、普通の二葉の松葉が挿されます。「阿礼」とは、神または貴人の再生、復活、誕生、そして降臨を意味します。 龍泉窯天龍寺茶入 銘 初花 ●眞名の壷は聖櫃に収められました。 |
曜変天目茶碗 銘 了珪 ●ザビエルやヴィレラ、ロレンソやダミアン、アルメイダやフロイスらが、了珪の別宅の瓦葺3階建の聖堂(阿免寺付近)で洗礼を授け、了珪も「ディオゴ」と称し、了珪の聖堂から50mの所に今井宗久の屋敷、200mの所に千利休の屋敷がありました。 井戸茶碗 銘 了斎 ●目の不自由な琵琶法師であった了斎24歳は、天文18(1549)年、ザビエルが鹿児島に上陸した折りに洗礼を受け、「ロレンソ」となります。 雨漏堅手茶碗 銘 宇留岸 ●宇留岸は、多くの日本人から慕われ、30年京都で過ごす中で、信長や秀吉などの権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者です。 赤楽変わり茶碗 銘 左衛門尉 ●左衛門尉は、柳生新陰流祖の石舟斎も恐れた達人、結城山城守忠正の長男です。永禄5(1562)年、左衛門尉の招きでヴィレラ37歳とロレンソ36歳が飯盛城にて布教し、三箇伯善守・池田丹後守・結城弥平次など70数名が洗礼を受けます。三好長慶も飯盛城下での布教及び聖堂を保護します。永禄7(1564)年、左衛門尉は日本で初めて聖堂を、四条畷市砂の寺内に建てました。 |
![]() 小堀遠州竹花入 銘 ほとゝぎ寿 ●小堀遠州は、天正7(1579)年、近江国坂田郡小堀村の豪族、小堀家の長男として生まれ、3歳の時、天正10(1582)年6月2日本能寺の変で織田信長が召されます。9歳の時、天正16(1588)年、太閤秀吉御成時の小性として給仕。千利休に初めて会います。16歳の時、豊臣秀長が召された後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく召され、文禄4(1595)年に豊臣秀吉直参となって伏見に移る事になり、ここで古田織部に茶道を学ぶ事になります。18歳の時、慶長2(1597)年、藤堂高虎養女を正室に迎え、19歳の時、豊臣秀吉62歳は1598年8月18日に五大老筆頭の徳川家康や、豊臣秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で胃癌で逝去し、これを契機に慶長の役は終了します。28歳の時、慶長12(1607)年、大徳寺春屋宗園禅師より「宗甫」の号を戴き、宗甫と名乗ります。宗甫29歳の時、慶長13(1608)年、徳川家康の居城、駿府城作事の功により、諸大夫従五位下遠江守に叙任され、この時から「遠州」と呼ばれるのです。遠州33歳の時、慶長17(1612)年、名古屋城天守閣作事奉行。江月宗玩和尚を開山として大徳寺龍光院内に、孤篷庵(1643年に現在地へ移す)を創建します。遠州36歳の時、慶長20(1615)年、大坂夏の陣で家康の旗本に属します。この時、茶道の師・古田織部が71歳で自刀。遠州63歳の時、寛永19(1642)年、徳川将軍の茶道師範となります。遠州68歳の時、正保4(1647)年2月6日、伏見奉行屋敷にて召されます。伏見奉行在籍25年。信長、秀吉、利休、織部、家康、家光・・・多くの著名人と交流を持った茶人でした。 天龍寺珠光茶碗 銘 松屋鷺 ●天正13(1585)年、古田織部41歳は、千利休の紹介で、奈良の松屋久政の茶会に臨んでいます。この時織部が久政を訪ねたのは、松屋三名物(松屋肩衝・存星の盆・鷺の掛軸)と謳われる、鷺の掛軸を見る為でした。現在、松屋三名物の松屋肩衝は、島津家から出て根津美術館に。存星の盆は、盆田家に伝わる家宝だそうです。 村田珠光門下の古市澄胤を経て、松屋久政が所有した鷺の掛軸は、現在所在不明だそうです。 |
周代水差 銘 鳳凰 ● |
赤津焼浄瓶 ● |
李朝扁平花入 ● |
西郷隆盛書 人事を尽くして天命を待つ ●明治10(1877)年8月2日の事です。西南戦争の西郷隆盛は、最終的には運を天に任せてしまったような気がします。「人事を尽くして天命を待つ」と言う故事が示しているように、自らが有らん限りの努力をし尽くした後に、運命や天命と言うモノが開け、そして導いて行かれるモノです。西郷は天命を試みたのでしょう。 |
エミールガレ茶碗 ●シャルル・マルタン・エミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846年5月4日〜1904年9月23日)は、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アート・ディレクターです。 エミールガレ茶碗 ●1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した月光色ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞します。 エミールガレ夏茶碗 ●1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い、高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たと言われます。 |
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横山大観 花に小禽 ●横山大観(大觀、明治元(1868)年9月18日〜昭和33年(1958)2月26日)は、日本の美術家。日本画家。茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。代表作。「蕭湘八景」1912年 東京国立博物館蔵 ※重要文化財。「生々流転」1923年 東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財。 |

四条畷のクルス ●大正12年、四条畷南野向之町の農家の壁に、塗り込められていたクルスが発見され、保存状態は良好でした。当時、農業補修学校教諭がクルスを持っている生徒を見て、「大切なモノだから、子供が玩具にするモノでは無い!」と、保管する事になりました。美術教師でしたが、北河内の歴史解明に尽くされキリシタン遺跡も調査されました。これは持ってません。
クルス妙見菩薩 ●妙見菩薩は、剣と手印で十字(クルス)を切ります。この能勢妙見の能勢氏の家紋はクルスであります。妙見菩薩は金属に関係するそうで、古来からの金山の近くに妙見さんが多いのはそれ故でしょう。星田妙見宮には北斗七星の精が降臨した伝承がありますが、字は鐘鋳谷(カネイダン)と言うらしく、後に末裔が枚方の伊加賀に住み、日本一の鋳物師になります。これも持ってません。
●織部蝋燭立 銘 祈り
●クルスこけし 男は胸に十字架、女は合掌し数珠(コンタツ)を持ちます。
●クルス蝋燭立 十字を透かし、火を灯すと向こうにクルスが映ります。
●クルス粉引食籠(パテナ)
●クルス茶碗(カリス)
●伴天連水盤
●クルス三島俵パテナ(食籠)
●ΙΧΘΥΣ(魚のカリス)(聖杯)
●黄瀬戸南蛮燭台
●マリア観音
●無鹿(ムジカ)花入
ペルシャ花入 銘 光明 ●正倉院は、聖武天皇の49日にあたる天平勝宝8(756)年6月21日、光明皇后がその遺品を大仏に献上したトコロから始まります。正倉院の3つの倉の中で、特に北倉は、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収める事から、早くから厳重な管理がなされ、宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会う事が必要とされます。
高麗井戸茶碗 銘 老神主 ●崇神天皇8(BC90)年に「下鴨神社の瑞垣の修造が行われた。」と言う記録があるそうで、古い古い神主。
熊川御本茶碗 銘 阿礼 ●熊川茶碗は、口縁の端反りが特長です。上賀茂神社の拝殿前の立砂の上に松葉を立て、陰陽を現す秘儀、御阿礼(ミアレ)神事が執り行われ、向かって左の立砂の上には、神社にある珍しい三葉の松葉が挿され、右の立砂には、普通の二葉の松葉が挿されます。「阿礼」とは、神または貴人の再生、復活、誕生、そして降臨を意味します。
龍泉窯天龍寺茶入 銘 初花 ●眞名の壷は聖櫃に収められました。
曜変天目茶碗 銘 了珪 ●ザビエルやヴィレラ、ロレンソやダミアン、アルメイダやフロイスらが、了珪の別宅の瓦葺3階建の聖堂(阿免寺付近)で洗礼を授け、了珪も「ディオゴ」と称し、了珪の聖堂から50mの所に今井宗久の屋敷、200mの所に千利休の屋敷がありました。
井戸茶碗 銘 了斎 ●目の不自由な琵琶法師であった了斎24歳は、天文18(1549)年、ザビエルが鹿児島に上陸した折りに洗礼を受け、「ロレンソ」となります。
雨漏堅手茶碗 銘 宇留岸 ●宇留岸は、多くの日本人から慕われ、30年京都で過ごす中で、信長や秀吉などの権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者です。
赤楽変わり茶碗 銘 左衛門尉 ●左衛門尉は、柳生新陰流祖の石舟斎も恐れた達人、結城山城守忠正の長男です。永禄5(1562)年、左衛門尉の招きでヴィレラ37歳とロレンソ36歳が飯盛城にて布教し、三箇伯善守・池田丹後守・結城弥平次など70数名が洗礼を受けます。三好長慶も飯盛城下での布教及び聖堂を保護します。永禄7(1564)年、左衛門尉は日本で初めて聖堂を、四条畷市砂の寺内に建てました。
小堀遠州竹花入 銘 ほとゝぎ寿 ●小堀遠州は、天正7(1579)年、近江国坂田郡小堀村の豪族、小堀家の長男として生まれ、3歳の時、天正10(1582)年6月2日本能寺の変で織田信長が召されます。9歳の時、天正16(1588)年、太閤秀吉御成時の小性として給仕。千利休に初めて会います。16歳の時、豊臣秀長が召された後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく召され、文禄4(1595)年に豊臣秀吉直参となって伏見に移る事になり、ここで古田織部に茶道を学ぶ事になります。18歳の時、慶長2(1597)年、藤堂高虎養女を正室に迎え、19歳の時、豊臣秀吉62歳は1598年8月18日に五大老筆頭の徳川家康や、豊臣秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で胃癌で逝去し、これを契機に慶長の役は終了します。28歳の時、慶長12(1607)年、大徳寺春屋宗園禅師より「宗甫」の号を戴き、宗甫と名乗ります。宗甫29歳の時、慶長13(1608)年、徳川家康の居城、駿府城作事の功により、諸大夫従五位下遠江守に叙任され、この時から「遠州」と呼ばれるのです。
天龍寺珠光茶碗 銘 松屋鷺 ●天正13(1585)年、古田織部41歳は、千利休の紹介で、奈良の松屋久政の茶会に臨んでいます。この時織部が久政を訪ねたのは、松屋三名物(松屋肩衝・存星の盆・鷺の掛軸)と謳われる、鷺の掛軸を見る為でした。
周代水差 銘 鳳凰 ●
赤津焼浄瓶 ●
李朝扁平花入 ●
西郷隆盛書 人事を尽くして天命を待つ ●明治10(1877)年8月2日の事です。西南戦争の西郷隆盛は、最終的には運を天に任せてしまったような気がします。「人事を尽くして天命を待つ」と言う故事が示しているように、自らが有らん限りの努力をし尽くした後に、運命や天命と言うモノが開け、そして導いて行かれるモノです。西郷は天命を試みたのでしょう。
エミールガレ茶碗 ●シャルル・マルタン・エミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846年5月4日〜1904年9月23日)は、アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家、陶器・家具のデザイナー、アート・ディレクターです。
エミールガレ茶碗 ●1878年、パリ万国博覧会に独自に開発した月光色ガラス(酸化コバルトによって淡青色に発色させた素地)や陶器を出品し、銅賞を受賞。また庭園装飾のための陶器で銀賞を受賞します。
エミールガレ夏茶碗 ●1885年より、ナンシー水利森林学校に留学中の農商務省官僚で美術に造詣の深い、高島得三と交流を持ち、日本の文物や植物などの知識を得たと言われます。
ケンプトン窯茶碗 ウィリー・シングルトン ●ペンシルバニア州ケンプトン村にあるウィリーさんの窯は、古き良きアメリカを彷彿とさせるような長閑な景色が続き、夜になると自分の脈が聞こえる程の静寂に包まれる。近くのホーク山の土は、太古に地殻変動で隆起した海底地質の土壌で、この土がウィリーさんの茶碗の骨格となっている。更にホーク山の周辺に自然素材を求めて、釉薬には木の灰、トウモロコシの灰、泥、糠灰等を好んで使う。でも、特に自然素材にマニックに拘ると言うのではなく、素材が「そこにあるから」、それに、「ドキドキするような結果が楽しみで」と言う自然体がウィリーさんの真髄だ。自然素材を使うと成功率が低く、ほぼ半分は徒労に帰します。日本独自の侘び寂び渋みの理解が浅いアメリカで、この日本の伝統を守り続けられる日本人的アメリカ人の作品は素晴らしいです。
横山大観 花に小禽 ●横山大観(大觀、明治元(1868)年9月18日〜昭和33年(1958)2月26日)は、日本の美術家。日本画家。茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。代表作。「蕭湘八景」1912年 東京国立博物館蔵 ※重要文化財。「生々流転」1923年 東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財。