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整体の誕生

『自然健康保持會』設立の一年前

高島野十郎 蝋燭


人體ラヂウム療法ところどころ

大正十四(1925)年六月十三日
人體ラヂウム療法教授九日目
科外講習の爲に武州御嶽山へ

「自然健康保持のチカラ」
自然との繋がりを見失った時、ココロとカラダは違和感を覺ゑる。
自然に生きる物は、極限状態になると「イザと云ふ時の爲に發揮されるチカラ」を引き出すのに。

近頃のボクは自然と懸け離れ、極限状態が全く無い。快適な、寧ろ不自然な生活の中で、スッカリ野性を失い、その「イザと云ふ時の爲に發揮されるチカラ」も錆び付いた様だ。

野口整体

「瀧行」
瀧行は、將に自然合一を體感するワザ。深いイノチの蘇りを與へる。
それは、ミタマの生まれ變はりの様な衝撃なのだ。

瀧の轟音、冷水、それらの刺激は、一種の精神的な極限状態を生み出し、危機意識を呼び起こし、これを回避する爲に腦内に在る自家製劑が多量に分泌され、ボクの持つ「自然健康保持のチカラ」を引き出す。

「瀧行によって引き出す」と云ふ事は、既に在る「自然健康保持のチカラ」を高める事にはなるまゐか。このチカラは、さうした特殊な状況下で引き出されるから。

瀧行で、日常生活でもその場に應じた「自然健康保持のチカラ」を引き出すコツを、理窟で無く身を以て修得するだらう。

「嘘僞り無き誓い」
ヒトと接する時、ボクは自分を僞って振る舞う事がある。
すると、知らず識らずに自らを僞ってしまい、それが習慣になってしまった。
しかし瀧行に臨む時、それは通用しない。
瀧行は、それを决めた時から、將に自分と向き合う機會なのだ。

「將門誓いの梅」
この邊りは承平年間に、平將門が天ヶ瀬に所在する金剛寺を訪れた際、馬の鞭に使用してゐた梅の枝を自ら地に挿し、「我願ひ成就あらば榮ふべし。然からずば枯れよかし」と願を掛けたところ、「見事に梅の枝は根付き結實するが、夏過ぎても實は青ゐまゝ熟さず、また、地に落ちる事も無く枝に殘った」と云ふ「將門誓いの梅」傳説によって、「青梅」と云ふ地名が付ゐたと云ふ。

「武藏御嶽神社」
御嶽山は、古くから山嶽信仰の靈山として金峰山御嶽藏王権現を中心に發展して來た山。
御嶽山の後に續く奥の院や大嶽山は、修驗者らの修行場であり、昔から山伏らが急峻な岩場や尾根を驅け巡ってゐる。
鎌倉時代から江戸時代に架けては武將の信仰が厚く、刀劍や大鎧の奉納もあった。
山上には、江戸時代より續いてゐる御師の家が建ち並び、他の山とは違う獨特の景觀が在る。
御師は、関東一圓に廣がる信者が参拝した際に祈祷を行ったり、また家を宿坊として信者に提供したりしてゐた。
明治になり、社号は「武藏御嶽神社」と改められてゐる。

「集注力」
日常生活に無い一種の極限状態に身を置く事で、氣力、判斷力、斷行力、集注力、野性の勘、閃き、直感力、更に情熱を養ふ。
最初、「あの瀧の水に勝たなければ」と云ふ氣概で臨んだが、その内、「今度は瀧の水にカラダを委ねよう」と云ふ氣持ちに變はった。
それがやがて、「瀧の水に勝つ譯でも、委ねる譯でも無く、調和しよう」と云ふ心持ちになり、瀧の冷たさも勢いも氣にならない、とても穏やかな明鏡止水の境地に至る。

「猿叫」
偖、ボクらが瀧行の行う前、先に瀧行をしている連中が居た。

「キェ~イッ」

・・氣持ち惡い。まるで獣の聲だ。
若しあの聲を、弱いヒトに掛けると、吃驚したり、心臓に惡い影響を與へるだらう。

ある武術家は、複數の鳩、烏の内、事前に特定の一羽だけに氣合を掛け、他は吃驚して一齊に飛び立つが、倒したり、よろめかせたりするのださうだ。
どんな聲を出すか、それぞれの流派ごとに决まってたり、個人の自由がある。

松本先生は、「何だあの猿叫は」。「アイツは手形詐欺、私文書僞造などで捕まった宗教家の手下で、それが最近、『不動明王がみえた』などほざいている」。「『佛法は無我にて候』として、眞實の佛陀は、自我を空じた無我の所に自覺體認される筈なのに、徒に『未證已證』と云ふ」と。

江間元代議士は、「あれは野狐だ」。「『死んだヒトのミタマに祟られ、生きている我らが不幸になる』などと云ふ邪説は、佛教には一切説かれておらん。人々の迷信的で漠然とした生命觀・生死觀に付け込んで、出鱈目な教義を佛法で在るかの如く述べ、信者から金を巻き上げている」と。

桑田講師は、「シッカリ封をした信者の御伺い書を、『開封せずに透視して返答を下した』らしいが、これは御伺い書の封筒をアルコールに浸して中の文字を讀み、アルコールは直ぐに乾くので、『開封しなくても讀む事が出來る』と云ふインチキを使い、日頃も飛んでもない屁理窟を思ひ付き、自分は天才だと自惚れ高慢になったのを隠す爲に、猫と寫眞を撮ったりする」と。

確かに、「魔境」と呼ばれる妄想が出て來てそれに囚われる。
妄想、魔境そのものは出る。しかしそれに囚われるはダメだと思った。

野口整体

ある禅師の墓の周りには、それを取り巻く様に小さな墓が並んでいるさうで、それらはその禅師と共に修行をして幻覺などを觀て氣が狂ったり、ヤマイになったりして志半ばで亡くなった弟子の墓ださうだ。

「掛け聲」
掛け聲は、極めワザを伴わないで出す聲の事だ。
自分の氣持ちを奮い立たせたり、封手を威嚇したりなど、様々な使い方が有る他に、

○封手の氣を迷わせる
○封手の氣を挫く
○封手を手の内へと誘ひ込む
○封手と調子を合わせる

など、様々な状況での掛け聲と云ふ物があり、目的によって掛け聲も様々に變化する。
聲の大小、長短、高低など、その場/\の状況によって、臨機應變、自由自在な變化に富んでいるのだ。

「氣合」
氣合は精神論で無く、日常に潜む。
譬へば、

○息を詰め小さな縫い針の穴に糸を通す瞬間
○魚を釣り針に合わせる瞬間
○書道の書き出す瞬間
○冷たい水に飛び込む瞬間

單に大きな聲を出す事を「氣合」と思ってゐるヒトが多いが、大聲を發する事のみを「氣合」と云ふのでは無い。
確かに、氣合は發聲を伴う物だが、呼吸と動作を一致させるとよりチカラが出る事は科學的にも實證され、それは「シャウト効果」と呼ばれるのだ。

でも聲と氣合は似て異なる物だ。

「息」
氣合は聲と云ふより息だ。
ヒトは、息を吐いた時に強いチカラが出せる様になってゐる。
そのチカラが出せる格が上がるに連れ、段々と息を秘める様になる。

氣合とは、「封手と氣を合せる」の意もあり、自己精神力の全部を封手の精神中に打込み、「封手の氣を制する」の意もあり、統一された精神力の爆弾を投げ付け、封手の氣魂を奪ひ、封手を我が精神力に服隨せしむるのである故に、氣合を掛くるには封手の精神状態を考察し、その機に投ぜねばならない。
云ひ換ゑれば、封手の呼吸を見計らい、封手の精神力を當方の精神力化するのである。

「統一體」
ココロと動作が、本體と影の様に一致している状態が「統一體」であり、精神と動作が、一點に集注して一致している状態が「氣合」でもある。

「氣合の施術」
氣合による施術が出來るので、ワザの决まる瞬間、吐氣と共に出て來る聲、内に充實したチカラが、ココロとワザとカラダが一體となった瞬間、繰り出すワザと共にカラダの中から目標の一點に向けて突き進む爆發音で决まる。

急所を突くので、大聲のみ發して良い譯では無い。

「氣合の種類」
氣合はその掛け方に、(一)蘇生氣合、(二)反省氣合、(三)剛生氣合、(四)捨て身氣合、(五)受け身氣合などあり、何れもその掛け方が異なり、故に強弱のキキメの異なるのみで無く、それぞれ掛くる場合を異にする。

(一)蘇生氣合
この氣合は、失神したヒトを蘇へさすと云ふ意にて、強く鋭く掛けるのである。
即ち「イヱイ」と云ふ「イ」の字一文字を口に出して、「ヱッ」を口の中で唱へると共に、「鐵板を貫く」と云ふ意氣にて、きり尖の様に尖った聲で細く強く掛けるのである。
故にこの氣合を施術に用ひる場合には餘程注意しなければならぬ。弱き婦人子供や心臓の弱いヒトには掛けてはならぬ。
若し掛かる患者、または幼弱者に掛くる時は、死に至らしむ事が有る。
それ故に「裏氣合」と云ふて、下腹から「ウ~ム」と軽く弱く掛けるのである。

(二)反省氣合
この氣合は、大地を壓する意氣を以て掛けるので、恰も口に指一本入るゝくらいの大きさにて「オウッ」と「オ」の字一文字を口外に、「ウッ」を口中で唱へつゝ掛けるのである。一般の患者に用ひてキキメ有る氣合にて、氣合を掛ける際、かなり長く引っ張って掛けるを良しとす。

(三)剛生氣合
この氣合は、石壁を押し倒すの意氣で掛けるにて、一度この氣合を掛けると「遥か向かうの鐘が鳴る」と云ふ意にて、一に「鳴鐘氣合」とも云ふ。
即ち心氣を一転し、氣分を靜整ならしむるので、施術に用ひてキキメが有る。吃音に最も良し。
法式は「アウッ」と云ふ「ア」の字一文字を唱へて、「ウッ」を口の中で唱へる。
丸い玉を放り投げる意味で、口を指先三本入るくらいにて行ふ。

(四)捨て身氣合
この氣合は、電光石火、敵陣中に飛び込むの意氣にて掛くるので、「ヤ~アッ」と掛けるのである。
即ち身命を抛って敵中に突進するので、非常な勢で、字の如く身を捨てゝ掛けるのである。

(五)受け身氣合
この氣合は、盤石を打ち返す意氣で掛けるので、阿吽の呼吸を圖り、掛けるのである。
荒木又右衛門の奉納試合は、即ちこれである。
兎に角精神療法に於いて、氣合は最も肝要な要素で、氣合の如何に由って施術のキキメを卜する事が出來るのであるから、能く氣合の掛け方に習熟して、これを適當に應用せねばならぬ。

それには良くそのワザを會得して練習を重ねゝばならぬ。

「氣合のキキメ」
原則は、統一された精神力の發揮とも云ふべき全力を集注したイノチのチカラ、即ち氣合である。
この氣合によって、封手の精神力を自己の精神力に同化さすのであるから、この氣合によって封手の潜在意識に影響を與へ、全く今までの記憶を一變し、不問の間に改められた意識を構成し、遂に施術のキキメを奏するのである。
即ちドギモを抜かるゝのである故に、氣合によって封手の活動を制止し、或いは活動を進むる事が出來るのである。
氣合を丹田に掛ければ、細胞が目覺める様な爽快さと氣力が沸き起こる。慣れて來ると、意識の膨張感と視野が明るくなる身體變化が感じられる。

「氣合の注意」
氣合を誤觧してゐる療術家が在るが、氣合とは、實を以て虚を衝く、即ち無念無想の一呼吸、これを「氣合」と云ふのである。無念無想の一呼吸、即ち無想の念の放射。これが眞の氣合である。



「靈界の三傑」
元衆議院・江間俊一の講演があった。
新聞などに載る有名なヒトだから知ってゐた。

野口整体野口整体
浜口熊嶽   肥田春充

「氣合の大家」
氣合の大家と云はれ、「江間式心身鍛錬法」の江間俊一、氣合術師の浜口熊嶽、「肥田式強健術」の肥田春充が有名である。しかし江間元代議士は、氣合の事を「禪の一喝なり」と稱してゐる。

自由黨員として、盛んに急進的自由民権論を提唱し、先輩諸氏の驥尾に附して東奔西走し、當時、太井憲太郎や星亨が辯護士として黨内に大勢力を有し、威望隆々たりしを見て慨然とし、「彼もヒトなり吾もヒトなり。一番辯護士となって政界に活動し、憲法實施の曉には、必ず大臣となり、酔うては枕す美人の膝、醒めては握る天下の権を實現せん」との大野心を起こし、「若し成らざれば死すとも還らず」との决心を以て明治法律學校に入學した。
ところが二十七歳の時、肺に故障があって樫村清徳醫學博士の診察を乞うと、「とても晩年法律などの專門學を修むべきカラダにあらず。イノチが惜しくば故郷に歸って鋤鍬でも肩にせよ」と冷たき死の宣告を受けた。
兄弟五人であったが、伯兄は三十二歳、仲兄は二十七歳、季弟未妹は各々七歳で夭折してゐる。
併し陽氣發處金石亦透。精神一到何事不成の金言に感じて大野心を起こし大决心をした。
西郷隆盛の句に、「丈夫玉砕愧甎全」と在るに憤激。
多趣味多方面なヒトで、書に秀で、書は修養したる禪より出でゝ達磨を得意とし、嚴谷一六居士が「神、妙、能の三品を兼備し、而人品亦如斯、洵可尚也」と激賞せしめ、湘南の「滄浪閣」の扁額は、實に伊藤博文公の爲に刻したる物であると云ふ。
能く舞ひ、能く歌ふ、角力に強く柔道に長じ、殊に馬術によりては、鹿島流の大家初代草刈庄五郎の弟とし、一流の名手として知られ、獨特の心身鍛錬法により法力を體現し、氣合法を以て不治のヤマイを即治出來ると云ふ。


「横綱・大錦卯一郎」
有名な話では、元横綱・大錦がまだ三段目くらゐの時、明治四十四(1911)年六月。大錦関が坐骨神經痛で休業して、京橋区木挽町の蝶々と云ふ茶屋に居候してゐた所へ、蝶々に遊びに來た江間代議士と風呂が一緒であった。
三段目・大錦関が江間代議士の背中を流しながら身の上話をし、「實は御大常陸関の好意により、あらゆる名醫の施術を受けたが寸効も無い。今ではとても癒へぬものと斷念したが、ある醫者の云ふに、『今日の醫術では神經痛は癒へ難い。催眠術で癒へた例は有る』との事で、全國至る所の催眠術の大家の施術を受けたが、どうもオレには掛からぬ。仕方が無いから、今日の容態では結局廢業する他は無い。併し今更廢業しては、最初の目的は水泡に歸し、遺憾限り無きのみならず、着物は一反では出來ず、カラダばかり大きくて普通のヒト程の働きも出來ぬ、殆ど無用の長物で終はる」。

江間代議士は、「それならワシの座敷に來い。氣合法で即治してやる」と云ったところ、大錦関はあまり耳を傾けなかった。
もう一度、「ワシは坐骨神經痛をこの十年間に澤山施術した經驗が有るから、まあ癒へぬでも損はあるまゐ、ビールでも呑ませるから來ゐ」と云って、強ゐて氣合法を奨めた。

渋々大錦関が來ると、猛烈に氣合を掛け、バタッと倒れ人事不省になり、大錦関のヤマイはそれで即治した。
それから引き續き五七回氣合法を掛けて、大錦関の靈力を呼び出し、「土俵の上に於ゐて、何時でも金剛力を發揮すべき事」を、大錦関の第九識に約束させておゐたと云ふ。
その後の大錦関の様子を見ると、稽古は存外弱ゐが、晴れの場所たる土俵に上ると、まるでヒトが違った様に不思議に強い。

これは「江間式心身鍛錬法」から云へば當然ださうで、一般から云へば一の奇跡と云へる。
猶ほ同時に、大錦関の第七識を呼び出し、大錦関に「どのくらゐ抱負が有るか」を徴したら、大錦関は無意識に大聲疾呼して曰く。「この坐骨神經痛さへ癒へれば、骨が舎利になっても、きっと横綱になってみせる」と、それはそれは非常な劍幕であったらしい。


「靈子術」
「太靈道靈子術」の講義があった。講師は北海道の桑田欣児なるヒト。

野口整体

このヒトは、清水芳洲の「東京心理協會」で「清水式瞬間催眠法」を學び、田中守平の太靈道本院にも顔を出し、「太靈道」に本格的に取り組み、大正十(1921)年より「桑田式」と稱する自己療法を完成させたさうだ。

大正十一(1922)年に北海道で「帝國心靈研究會」を創立し、「東京心理協會」や「太靈道」の支部も兼ねてゐるので、「太靈道靈子術」の講師ださうだ。

大震災前

大正八(1919)年。東京市小石川区の「人體ラヂウム學會」本部にて。

桑田講師は北海道での獨學では限界が有ると思ひ、大正八(1919)年七月。直接教授を求めて上京した。
が、結局「人體ラヂウム療法」の直接教授は受けたものゝ皆目わからず北海道に歸る事になった。

徳島県那賀郡に生まれ、幼くして一家は北海道河西郡伏古村に移住した。明治四十(1907)年に父の槇藏が腦溢血になり、施術代が掛かると云ふのにヒトに騙され無一文となった。
父の腦溢血を良くする爲に、最初は世間を賑わせてゐた催眠術を獨學し、その結果、暗示で性格を變へたり、無痛で皮膚に針を突き刺すなどのワザを習得するも、父の腦溢血を良くする事が出來ない。
指壓療法も實習し、そして靈術も志した。帝國神秘會に入り信仰生活もした。
一家の爲に頑張ったが、九年前頃から鼻血や頭痛、胃腸の不調、痔瘻などに惱まされ出した。
そして今から八年前の大正六(1917)年六月。新聞を見てゐると「太靈道」と云ふ廣告が目に入る。
汗の結晶である大枚五圓を叩き、思ひ切って教傳書を注文したのだ。

この「太靈道」の田中守平は、僅か十六歳で郷里の尋常小學校の教員になるが、英才教育を主張した爲に周囲との軋轢を起こし、間もなく辞職。
そして單身上京し、大藏省印刷局、内閣統計局集計係の下級雇員として薄給に耐へながら、日本法律學校、東京外國語學校で學んだ。
折しもロシアの南下政策によって國論が沸騰するや、田中守平は對露開戰を主張する上奏文を懐に、櫻田門で百二十二代明治帝への直訴を試み、その場で逮捕された。
世論の同情もあり、起訴は免れたが、田中守平は郷里に送り返され、官憲の監視下に置かれ、山中に小庵を結び勉學と瞑想に明け暮れたと云ふ。
そして、「イノチの持續は呼吸と食物の摂取に有る。ならばイノチの本質を理觧するには、食を斷つしか無い」と考ゑ、明治三十八(1905)年二月から六月上旬まで、合算九十日に及ぶ斷食を敢行した。
この修行中に、遠隔知覺など様々な靈異現象を體驗する。

山を降りた田中守平は、若干二十歳にして卓越した靈的な施術するチカラを持った靈術家として、その名聲は四隣に鳴り響き、押し寄せるヒトの數は加の一途を辿ると云ふ。
「太靈道」の主義は、「太靈を信奉し、全・眞・融會・創化・進展をする事であり、その目的は宗教、科學、哲學、道徳を包容し超越する事であり、宇宙の眞理を研究し、人生の本義を知る事であり、イノチの根源を究明し、これを現す事である」。

成る程・・。
桑田講師は教傳書を熟讀玩味し、その教へに從ってココロとカラダを整へ靜座瞑想に勤めたが、何ら變化が無い。
毎日1時間、辛い肉體労働の後、靜座瞑想する日々が續ゐた。

そして六年前の大正八(1919)年五月の夜。
北海道の山中で靜座してゐると、突如腰の邊に温かゐ血の湧き起るのを覺へ、その感覺は電流の様な強さだ。
腰部から指頭に傳感したと思ふと同時に、全身に大靈動を發現したのだ。
ところがこの經驗は、これだけで終はってしまう。
そこで次に「頭腦浄空法」を實修する爲に山に庵を造って籠ったが、四、五日連續で修行すると意識を失ひ倒れてしまう。
更に斷食も行ふが、食事の有難さを痛感しただけで、他の何も感得する事が出來なかった。

失意で山を下りた夜、奇妙な夢を觀たさうだ。
それは、「頭髪は短かく、鼻髭無く、白髪の口髭を長く垂らした老人」が顕れ、「お前は東京に行け。やがて転機が訪れる」と云ふものだった。
だが東京へ行っても、時のヒトなる「太靈道」の田中守平には直接教へを請へないだらう。

なので、人體ラヂウム學會長・靈學道場主範の松本道別の「人體ラヂウム療法」の直接教授を求めたのだ。
当時松本先生は、聞く所に依ると田中守平とは仲が惡かったらしい。

松本先生は、「イノチとは何ぞや?」と云ふ問題に取り組み、ラヂウムの研究を志し没頭したさうだ。

野口整体

大正二(1913)年。獨逸のカースと云ふヒトが、「内臓にラヂウム作用の有る事を發見した」と云ふ記事を見て、松本先生は人體とラヂウムの関係を探求する。
初めは、「ラヂウム放射線は水晶に作用して變色させる」と云ふ情報を元に、「一日中不透明の水晶に息を吹いてゐると、不思議にも透明に變はったので、この發見に端緒を得て、遂に人體にラヂウム放射線と同一の作用があって、それがイノチの根源たる事を確かめた」と云ってゐる。

それから郷里に殘された父母の遺産を賣却し、ラヂウム研究に必要な機材や書籍を買ひ、研究に没頭した。
その結果、人體から出てゐる物がα線であるとの結論を出したさうだ。

松本先生は研究の過程で、「暗室が無くてもラヂウムの測定が可能な蛍光實驗鏡の特許を取得した」と云ふのだから、その眞劍さは本物だと思ふ。
ともあれ、「人體には固有のラヂウムがあり、このラヂウムを制御する事でヤマイを施術する事が出來る」と云ふ考ゑを持つに至ったらしい。

まず家人や友人、知己の患者を訪ねて施術し、初めの頃は奏功したが、段々難病に出會う様になると自己の無能無力なる事を自覺する様になり、そこで生理學や觧剖學やマッサーヂ、オステオパシー、ヨガ、靈學、靈術に関する書籍を収集して比較研究に努め、遂に「人體ラヂウム療法」を完成させたのだ。

大正六(1917)年には「人體ラヂウム學會」を發足し、日頃は施術を施し、毎月五日及び十八日から十日間、毎日3時間の講習を開いてゐる。
ところが三年ぐらゐは廣告しなかった事もあり、教へて貰ひたいヒトや、施術を受けたいヒトは極めて少數であった。

桑田講師も、北海道で「靈光施院」の名稱で施術を行う様になるが、あまり芳しくなかったさうだ。

一方松本先生は、大正八(1919)年より江間元代議士の「江間式心身鍛錬法」の講習會の講師として靈動法や讀心法、催眠術などの施術や實驗を担當する様になったのを切っ掛けに、評判を呼ぶ様になった。

その評判は、「松本道別君は自家の孤壘のみを死守してゐない。自ら八宗兼學を以て任じ、如何なる靈術でも神療法でも、これを究めぬ事は無いと云って宜い。若し同君に就て『江間式心身鍛錬法』をと望めば、半日でも全部教へてくれる。『太靈道』の靈子術をと願へば、屁の如く遣って退ける。その他、催眠術でも歸神法でも讀心術でも、一切の靈術は出來ぬ事は無い。同君は耳順に近い年齢で數々の靈山聖地を巡礼して修養を怠らない態度は、實に敬服に價する」と云ふものだった。

そして大正八(1919)年。江間元代議士の仲裁で、田中守平と和觧したらしく、「靈界倶樂部」を組織し、江間俊一、松本道別、田中守平は「靈界の三傑」と稱される。

桑田講師は、八月に再度上京した。
無い金を工面し、貧乏を質に入れ、ヒトの笑うも意とせず、血を絞り肉を削ぐ苦しひ算段をして、二度目の上京を果たす。
會費を前納し、汽車賃を別にすると、殘りは四圓五十錢。これで東京に十餘日滞在しないと行けない。
たまたま十日間二圓五十錢で泊めてくれる老婆が居て、その家に厄介になった。
ところが電車賃が足りない。歸宅が遅れた時は野宿し、燒き芋で空腹を慰めながら十日間通ひ續けた。

桑田講師は、「苦しひ息詰まる思ひをしてゐるのに松本先生は、『今日は僕は用事が有るので止める』と三十分くらゐでその日は終る。『先生、何とか今少しお願ひを致します』と虔る/\お願ひすると、『十日間と决めてある。十日の内には終はるよ』とアッサリ仰った」。
桑田講師は空腹の中、松本先生の所藏する靈術書を讀破しノートを作ったが、そのノート代と鉛筆代を出すのさへも苦労したと云ふ。

この苦心惨憺な二回の上京により何を得たのか?

松本先生の書齊にあった藏書を讀破した成果か、自分の健康状態も、父の腦溢血も良くなってしまった。

今から五年前の大正九(1920)年「太靈道」三月号に、「靈子術體得苦心の道程」を寄稿したと聞く。

「太靈道の『太靈』とは、宇宙に偏在する超越的實體の本源であり、この實體を活動的方面から見る時、これを『靈子』と呼んだ。そして物質も精神も、この靈子なる一元的な物から生み出され發現してゐる。そのチカラは太靈の究極的原理によって現れる。この靈子を發現させるワザこそが靈子術である」と云ふ。
靈子術を實践すると靈子作用が引き起こされるが、これは肉體の作用でも精神の作用でも無く、肉體や精神の原因實體である靈子の作用であって、この作用には二つの發動の状態があり、一つは「顕動作用」、もう一つは「潜動作用」なのださうだ。


大震災後

行氣

「ココロの聲」
大正十四(1925)年六月五日。東京市淀橋町の「人體ラヂウム學會」本部へ。
この日、十三歳のボクは高島屋の奉公を早めに切り上げ、急いで行く所があった。
毎月五日より十日間。毎日3時間教授してゐると云ふ「人體ラヂウム療法」を受講する爲だ。
會費は参拾圓。修了者には卒業證書が授けられると云ふ。
案内には、「最新の科學に根ざした20世紀の新醫學で、科學を超越した最靈術である」と書いてある。こんな謳ひ文句を信じ。

本當のボクは、實際に見て、確かめて、納得しないと絶對に信じない。絶對に。

それと、上手く聲が出せないんだけど、大丈夫だらうか?
ボクは二歳の頃、ジフテリアと云ふヤマイに罹り、もうダメだとも云はれたらしい。肺が眞っ黒になってゐたさうだ。そのせゐか、今も掠れた小さな聲しか出ない。

「鍼灸師の叔父」
このヤマイの爲、○人兄弟の二番目だったボクは、子供の居ない鍼灸師の叔父さんに預けられ、物心着ひた頃には叔父さんの眞似をしたり、お灸を据へる手傳ゐをした。
叔父さん座右の書、本郷正豊の「醫道日用綱目」もコッソリ盗み見て暗唱し、理觧もしたつもりだ。

ボクは、封手のカラダの惡い処が黒く診えるし、近所のお爺さんお婆さんの鳩尾を探り、

「もうすぐ死ぬよ」

って眞顔で云ひ當てたりしてゐた。

大正七(1918)年、ボクがまだ七歳にならなかったある日。奇妙な夢を觀たんだ。
ボクが大麻止乃豆乃天神社の石段を登ってゐると、「頭髪は短かく、鼻髭無く、白髪の口髭を長く垂らした老人」が顕れ、「この石段の石を除けると銭がある。これをお前にやる。この銭を持ってゐると銭に困らない」と云ふんだ。

早起きしてその神社に行き、石段の石を除けると確かに古銭があった。いつも大事に持ってゐる。夢がチョコチョコ本物になる感覺は、その時既にあった。

いつも上手く聲が出せないもどかしさからか、コトバを使わないで傳へるワザを、自分なりに模索してゐた。

小さい頃から、聲を出さず念ずるだけでヒトが近付ひたり、離れたり、振り向いたりし、電車に乗ると、前の座席のヒトに「揺れる、揺れる」と念じて揺れ出すとか、感覺を封手に投入し、觸れるなら掌から直接、離れていたら感覺を飛ばし感知し、かなりの確率で封手の事がわかった。

コトバでは上手く表現出來ないけど、ボクの腦と封手の腦が直結するみたいな。

日頃から本が好きで、圖書館に行ってはメスメルやクーヱの催眠や自己暗示を獨學し、同級生に催眠術を掛けて齒痛を癒したりもした。

たぶん「將來ボクは、叔父さんの様な仕事をするんだ」と秘かに思ってゐたんだらう・・。あの時までは。

そんな中、叔父さんの所に跡取りが生まれ、八歳を過ぎたボクは實家に歸されたんだ。
實家では、四畳半に親子八人が寝る。食事なんかは、食卓の眞中にオカズが出ると、みんな一齊にパッと手を出す。
叔父さんの所でユッタリ育ったボクは、アッと云ふ間に食べる物が無い。それでお釜に殘った飯粒を洗ひながら食べたりした。

だが轉機は訪れた。あれは忘れもしない、もうすぐ十二歳になると云ふ大正十二(1923)年九月一日。関東大震災。

震災の三日後、知り合ひの煮豆屋のおばさんが疫痢で苦しんでゐたんだ。
その時初めて手を當てたら、苦しみから開放されたおばさんがグウグウ寝てしまゐ、目覺めると癒へてしまった。
あの時は、周囲に醫者も居なかったし、薬も無かったからね。

「小學生が手を當てて癒す」って瞬く間に廣がり、その日から何人かに手を當てる事を頼まれる様になり、少しは謝礼も貰う様になった。

それが面白くて、ずっと續けて行きたかったんだ・・。

ところが兩親は、ボクに學校を辞めさせて高島屋に奉公に行かせた。
殆どの給金は實家に渡してゐたから、震災以降に少しずつ貯めてゐた手當て施術の謝礼を、今「人體ラヂウム學會」に前納しに來ている。

少し前、田中守平の『太靈道及靈子術講授録』と云ふ本を讀んだ。
實は流行の「太靈道」と、「人體ラヂウム療法」と、どちらにしようか迷ってゐた。
でも「太靈道」だと、岐阜まで講習に行かないといけないらしい。

そこで鍼灸師の叔父さんに尋ねてみたら、松本道別の「人體ラヂウム療法」を薦められ、「松本道別は、八宗兼學を以て任じ、如何なる靈術でも神療法でも、これを究めぬ事は無いと云って宜い。若し同君に就て『江間式心身鍛錬法』をと望めば、半日でも全部教へてくれる。『太靈道』の『靈子術』をと願ゑば、屁の如く遣って退ける。その他、『催眠術』でも『歸神法』でも『讀心術』でも、一切の靈術は出來ぬ事は無いと噂されるんだよ」と。

「靈界の大久保彦左衛門」
他の紹介文などは、「その學理の正確、研究の緻、ワザの完備、到底舊式靈術の及ばざる所で、その創始にして指導者たる松本道別は、人格潔、靈界の巨人にして、また元老である」と云ふ。

色々調べると、
「直情径行で、ヒトの惡を見れば决して大目には見ないが、極めて正直者であって、また義に固く情に危うゐ反面が有る。だから情に絡んで頼みに行けば、何でも聞ひてくれると云ふ純情の持ち主。靈界には僞君子が多い。腹が立っても怒れず、嬉しくても笑へない連中ばっかりだ。茲に松本道別の様な純眞な性格のヒトが居るのは、瓦礫の中に殊玉の在る様なものだ」。
『精神統一』と云ふ雜誌は、「松本道別を『靈界の大久保彦左衛門』と評したが、確かに的を射たものである」とも。

さうかうする内に、東京市淀橋町の「人體ラヂウム學會」本部に着いた。
一日3時間講義をすると云ふし、何とか奉公を切り上げれば間に合う筈だ。

大正十四(1925)年六月五日
人體ラヂウム療法教授初日
最初に松本道別先生の紹介があった。
簡單に箇条書きをすると、

①伊勢に生れ、幼少の頃はカラダが弱く、ヤマイが絶へなかったと云ふ。

②三重県立中學に入學し、自由民権思想に氣觸れた事もあり、この間に佛教の修行を思ひ立って京都相國寺の禪堂に入った。

③國學の流れを組む家系に生まれたので、東京專門學校を出た頃は本居宣長流の復古神道を主張してゐたが、やがて「皇室中心主義」を唱へる様になった。

④學校を出て二十八くらゐまで婦人雜誌の記者をしてゐて、三十の時に公益社から『東京名物志』を著した。

⑤三十三の時に、日露講和条約に反對して猛烈な運動を起こす。

⑥その後は「社會主義」に傾倒した結果、燒き打ち事件の主犯として明治四十三(1910)年まで三年間刑務所に服役した。

⑦そして刑務所で一つの發見をする。それは、冬は暖房も無く短衣に股引と云ふ生活だったのに、風邪一つ引かなかった事。
この體驗と、讀書による進化論などの研究によって、「ヒトは進化の過程で、立って歩く事で内臓を壓迫し、火食を始める事で胃腸を弱くし活氣活力が失われた」と考ゑる様になった。
そしてヒトは神の穏健から見放されてゐる。如何に自然を剋服して利用しても、自然から復讐を受ける。
だから「人爲的から目覺めて自然に還り、自然的生活を履行しないと滅亡は目前である」と云ふ結論に至った様だ。
この爲火食を避け、日光浴、水浴び、深呼吸に心懸ける生活を送る様にしてゐると云ふ。

⑧かうして純粋の唯物論者として「無神無靈魂」を主張してゐたが、人體ラヂウムの研究が進む内に、西洋科學者の心靈施術にも影響を受け出したのださうだ。