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第十一 サンタヱケレジヤの七のサカラメントの事

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弟:後生を扶くるべき爲には、今まで示し給ふ所の良く物を頼み奉る事。達してヒイデスを得奉る事と、身體をまさしく修むる事。この三ヶ條ばかりにて、悉くみな達するや否や。
師:その儀にあらず。これを保ち行ふ爲に、デウスのガラサもっぱらなり。

弟:そのガラサをデウスより下さるゝ爲に、何たる道有りや。
師:御母サンタヱケレジヤのサカラメントス(複数の秘蹟)。是なり。このサカラメントスを、善き覚悟を以て受け奉るべき事肝要なり。

キリスト


弟:そのサカラメントスは幾つ有りや。
師:七有り。

一には、バウチズモ。
二には、†コンヒルマサン(堅振)。
三には、ヱウカリスチヤ。
四には、ペニテンシヤ。
五には、†ヱステレマヴンサン(終油)。
六には、オルデン(品級)。
七には、†マチリマウニヨ(婚姻の秘蹟)。是なり。

弟:この七のサカラメントをば、誰人の定め給ふぞ。
師:御あるじゼズキリシトの御身のガラサと、御パッションの御功力とを我らに與へ給はん爲に定め給ふものなり。

弟:そのサカラメントスをば、何と樣に受け奉るべきや。
師:ヱウカリスチヤのサカラメントを授かり奉るヒトは、モルタル科あらば後悔の上にコンヒサンを申す事もっぱらなり。世のサカラメントを受けるヒトは、責めてコンチリサンを以て受くべき事なり。但しコンヒサン申すに於ゐては、尚達したる事なり。

弟:この七のサカラメントの内に、第一は何れぞや。
師:まづ第一には、バウチズモのサカラメントなり。このサカラメントは、キリシタンになる爲と、また、世のサカラメントを受け奉るべき爲にも下地となるなり。

弟:バウチズモとは何事ぞ。
師:バウチズモとは、キリシタンになるサカラメントなり。これを以てヒイデスとガラサを受け奉り、オリジナル(原型)科と、その時まで犯したるほどの科を赦し給ふサカラメントなり。これ即ち元々の道より受け奉るに於ゐてはの事なり。

弟:如何なる覚悟を以て、このサカラメントを受け奉るべきぞや。
師:是非を弁ゆるほどの者ならば、まづキリシタンに成らんと望み、過ぎにし科を悔ゐ悲しひ、それより御あるじゼズキリシトの御掟を保ち奉るべきとの覚悟を以て、このサカラメントを受ける事肝要なり。

弟:このサカラメントをば、何と樣に授け給ふぞ。
師:これを授かるヒトの頭か、責めてそのヒトの身の上に水を掛くると共に、この文を唱ゆべし。

如何にペトロ(Petrum)、パウロ(Paulum)となりとも名を付けて、「それがし、デウスパアデレ、ヒイリヨ、スピリツサントの御名を以て、汝を洗ひ奉るなり。アメン。」と云ふべし。

これを經文の唱へには、何の名なりとも付けて後、「†ヱゴ テ バウチイゾ イン ノウミネ パアチリス ヱツ ヒイリイ ヱツ スピリツス サンチ アメン」と云ふなり。

キリスト


弟:もしヒトあって、この文を唱へずして水を掛くるか、またはコトバの半分を云ふか、或ゐはそのコトバの内、一つなりとも書きて水を掛くるか、或ゐは文をば悉く唱へて水を掛くると雖も、水を掛けざる前か後か、右の文を唱へるに於ゐては如何に有るべきや。
師:水を掛くると共に唱へずんば、バウチズモを受けたるにては有るべからず。また、文をも達して唱へる事肝要なり。但し、それがしと云ふコトバか、アメンと云ふコトバか、或ゐはバウチズモを受けるヒトの名をば云はずともバウチズモと成るなり。この三を除きて、世のコトバの内、一つなりとも掛くるに於ゐては、バウチズモを授りたるにはあらず。

弟:バウチズモを授からずしても扶くる道、前に有りや。
師:後生を扶ける爲に、惣じて無くして叶はざる道なり。
これによって叶ふに於ゐては、達して授くるべき事なり。
さり乍ら、ヒト有りてバウチズモを授かりたく望むと雖も、それにつゐてを得ずして、そのまゝ死すると云ふとも、眞實にその身の油断無くんば、例え水のバウチズモをば授からずとも、扶かるべきものなり。その故は、バウチズモの望み深かりしによってなり。然れども、これも右に云ひし如く犯せる科の後悔、最も肝要なり。

弟:バウチズモをば誰人の授け給ふぞ。
師:元々の儀ならば、バウチズモを授くる事、パーデレの役なり。
さり乍らこのサカラメントは、後生を扶ける爲に無くして叶はざる道なれば、御あるじゼズキリシトよりパーデレの無き所にては、男女によらず、このサカラメントを授くる御許しを與へ給ふによって、誰なりとも授くる事適ふものなり。
これまた、御あるじゼズキリシト教え置き給ふ如く、これを受け奉るべき爲に、右の肝要なる儀を保つに於ゐてはの事なり。
パーデレの無き所にても、この授け繁くゐる事なれば、キリシタンは何れもバウチズモを授くる道を習うべき事もっぱらなり。

弟:第二のサカラメントは何ぞや。
師:コンヒルマサンのサカラメントなり。これをまた、†キリズマ(聖香油)とも云ふなり。バウチズモを授かりたるヒトに、ビスポより授け給ふサカラメントなり。このサカラメントを以て、デウスより新しきガラサを與へ給ひバウチズモの時、受けたるヒイデスを強め給ひ、要るべき時に萬民の前にそのヒイデスを表す爲に、御力を添へ給ふサカラメントなり。
これ即ちこのサカラメントの徳儀なり。

弟:第三のサカラメントとは何事ぞ。
師:†コムニアン(聖体拝領)とも云ひ、ヱウカリスチヤとも申すサカラメントなり。

キリスト

弟:このサカラメントの仔細を示し給へ。
師:このサカラメントは最上のミステリヨなれば、コトバに述べられぬ事なり。パーデレ、ミイサを行ひ給ふ時、御あるじゼズキリシトの直に教え給ふ御言霊を、カリスとヲスチヤ(聖餅)の上に唱へ給へば、その時までパン(Pao)たりしは、即時にゼズキリシトの眞の御色身と成り代はり給ひ、また、カリスに有る所の葡萄の酒は、ゼズキリシトの眞の御血と成り代はり給ふ事を信ずる事肝要なり。然からばそれより、パンと葡萄の酒の色か味はひの下に、御あるじゼズキリシトの御正體、天に御坐ます如く、その所にも御坐ますなり。それによって直にゼズキリシトの尊躰を拝み奉る如く、この量り無きサカラメントを敬ゐ奉る事専用なり。

弟:パンと葡萄の酒は、ゼズキリシトの御色身と御血に成り代はり給ふ事、何と適ふべき數多、その色かを味はひ見奉れば、葡萄の酒の色か味はひも前に違はずして、有りと存るなり。これ大きに不思議なる事なり。
師:さてこそこのサカラメントは、不可思議第一のミステリヨと申し奉るなり。その仔細を達して知る事適はずと雖も、眞の源にて御坐ます。御あるじゼズキリシト、是の如く教え給ふ上は、少しも疑はず信ずる事もっぱらなり。これらの儀をサンタヱケレジヤより教え給ひ、また、御あるじゼズキリシト、このサカラメントの眞なる事を表し給はん爲に、ヱウカリスチヤにつゐて樣々の御奇特を表し給ふものなり。
我らが目には、パンと葡萄の酒とのみ見ゆる仔細は、前の儀無し。ただ色か味はひ、寸法も元の如くに御坐ますによって、パンと葡萄の酒のみ目に掛かるものなり。
然れども、ヒイデスの光を以て信ずる事は、パンと葡萄の色かの下に、パンと葡萄の正體は無きなり。ただ御あるじゼズキリシトの直の御色體と御血のみにて御坐ますなり。

弟:パンの色か味はひの下に、ゼズキリシトの御色身御坐まし、葡萄の酒の色か味はひの下に、御血御坐ますと云へる事何事ぞ。もし†ヲスチヤに御坐ますゼズキリシトの御色身は、カリスに御坐ます御血に離れ給ふや。
師:その儀にあらず。それを如何にと云ふに、ヲスチヤにもカリスにも、御あるじゼズキリシトの御色身は、御血共に離れ給はずして、天に御坐ます如く込もり御坐ますなり。さり乍ら、クルスに於ゐて御血を流し給ふ時、その御血は御身を離れ給ふによって、この量り無き御パッションのミステリヨを行ひ奉る爲に、御あるじよりヲスチヤス(複数の聖餅)とカリスの上に赫々(かつかく)に文を唱へよと教え置き給ふものなり。その御言霊の御勢力を以て、パンの正體は、御あるじゼズキリシトの尊躰に成り代わり給ひ、葡萄の酒の正體も、御あるじの御血に成り代わり給ふものなり。
さり乍ら御あるじゼズキリシト、御入滅より蘇り給ひて後、御色身と御血と赫々に坐さざるか故に、ヲスチヤスにもカリスにも離れて御坐ます事無きものなり。
ただヲスチヤに御血と御色身共に御坐ます如く、カリスにも御血と御色身も共に御坐ますなり。

弟:このサカラメントは、御あるじゼズキリシト御一體にて御坐すなるべし。乍ら同時に數多のヲスチヤ、數多の所に坐す事は何と申したる事ぞ。
師:その普請最もなり。さり乍らこの儀を弁えらるべき爲に、一つの譬え有り。
何にてもあれ、一の物を數多の鏡の前に置くに於ゐては、何れの鏡にも、その姿映る試し有り。これさへ是の如くなる時んば、況してや云はん。
萬事叶ひ給ふ、實のデウスにて坐す、御あるじゼズキリシトの御身御一體にて坐すと申すとも、數多の所に於ゐて數多のヲスチヤに御坐ます事適ひ給ふまじきや。

弟:ヲスチヤを二に分け給ふ時は、御あるじゼズキリシトの御色身も分かり給ふ事有りや。
師:その儀にあらず。ヲスチヤを幾つに分けても、御あるじの御色身を分け奉る事にはあらず。ただヲスチヤの別々に、全く備わり坐すなり。例えば面影の映りたる鏡を寸々に割ると雖も、その面影を割るにはあらず。ただ鏡の切れ切れに、その面影は全く映るが如くなり。

弟:ゼズキリシトの御丈は、世の常のヒトほど坐せしに、小さきヲスチヤには、何として全く込もり給ふぞや。
師:この量り坐さぬサカラメントは、ナツウラ(自然)の上のミステリヨなるを、強ゐて弁えんとするは要らざる望みなり。ただ深き遜りを以て信じ奉る事もっぱらなり。
然りと雖も、右の鏡の譬えを以て、少しなりとも弁えらるべし。右に云へる如く、鏡の割れは小さき物なれども、それに映る物はヒトの丈ほどなる物は云ふに及ばず。大山にてもあれ、残らず映るものなり。ナツウラの道さへ、是の如くなるに於ゐては、インヒニトにて坐す、御あるじゼズキリシトの御色身などが思し召すまゝに、小さきヲスチヤに込もり給はん事、適ひ給はずと申す事坐さんや。但し、この譬えを以ても有りのまゝには表し難し。その故は、鏡にはその面影のみ映ると雖も、ヲスチヤには御あるじの御正體、悉く直に写り坐すものなり。

キリスト

弟:このサカラメントを、善き樣に受け奉る爲に何事をか仕るべきや。
師:モルタル科を犯したる者ならば、何たる科なりとも、未だそれをコンヒサンに申さぬに於ゐては、深き後悔を以て懺悔する事もっぱらなり。その他、前の日の夜半より、飲み物、食ゐ物を用ゐず、もし少しなりとも湯水をも用ゆる事あらば、その明日には受け奉る事適はぬなり。また、このサカラメントを授り奉らん時は、起き上がりて、より深き遜りを以て、このサカラメントに込もり給ふ御方は誰にて坐すぞと云ふ事を思案致し、これは我らに對せられて樣々の呵責を受けさせられ、遂に御入滅なされたる御忍の條々を顧み奉る事肝要なり。また、受け奉りてよりは、我がアニマに來り給ひし御忍を深く観念して御礼を申し上げ奉るべし。

弟:第四ヶ條目のサカラメントは何事ぞ。
師:ペニテンシヤのサカラメントなり。
これ即ちバウチズモを授かりて以後、アニマの病となる科を治さるゝスピリツアル(霊的)の良薬なり。

弟:ペニテンシヤは幾つに極まるなり。
師:三に極まるなり。

一には、コンチリサンとて、心中の後悔なり。
二には、コンヒサンとて、コトバにて懺悔する事なり。
三には、†サチシハサン(罪の償ゐ)とて、所作を以て科送りをする事なり。

弟:眞實のコンチリサンをば、何と樣に持つべきぞ。
師:デウスに對し奉りて、犯したる科を眞實に悔ゐ悲み時分を以て、コンヒサンを申すべし。これより後は、モルタル科を犯す事有るまじきとの強き覚悟を据へ、過ぎし科の賠(つくの)ひを致すを以て、眞實に達するなり。

弟:コンヒサンをば何と樣に申すべきぞ。
師:まづ初めて申すコンヒサンならば、バウチズモの以後の科より、その時までの事を申すべし。一度申して以後のコンヒサンならば、前のコンヒサンより、また、その時まで、犯したる科の上を思案して、一も残さず申す事肝要なり。この事の爲に右の九ヶ條目に表すべき事を保つべし。

弟:サチシハサンとは何事ぞ。
師:我らが科の賠(つくの)ひを、御あるじゼズキリシトへと問へ奉る事なり。これ即ち我らが後悔、心中の痛みと、パーデレより授け給ふ科送りを以て整ゆるものなり。

キリスト

弟:第五のサカラメントは何事ぞ。
師:ヱステレマヴンサンとて、ビスポより唱へ給ふ貴きヲゝレヨを以て、授かり奉るサカラメントなり。このサカラメントは、死ぬるに臨んで病人のみに授け給ふサカラメントなり。このサカラメントを以て、御あるじゼズキリシト御身のガラサを與へ給ひ、アニマに残りたる科の穢れを浄め給ひ、臨終の難儀を善き樣に堪えんが爲に御力を添へ給ふサカラメントなり。

弟:第六のサカラメントは何事ぞ。
師:オルデンと云ふサカラメントなり。このサカラメントを以て、ビスポよりサセルダウテとサカラメントスを授くる位にヒトを上げ給ふものなり。このサカラメントを授かり奉る人々は、その役を善き樣に勤むる爲に、御あるじゼズキリシトよりガラサを與へ給ふサカラメントなり。

弟:第七のサカラメントとは何事ぞ。
師:マチリマウニヨのサカラメントなり。このサカラメントは、ヱケレジヤの御定めの如く妻を儲ける事なり。これを以て無事に長らへ、デウスより教え給ふナツウラの法に任せ、子孫繁盛の爲にガラサを與へ給ふサカラメントなり。

弟:その時、夫婦互ゐにせずして叶はざるとの定まりたる約束の儀有りや。
師:これ最もの普請なり。互ゐにせず以て適はぬ、三つの厳しき約束有り。

一には、一度縁を結びて後は、男女共に離別し、また、世のヒトと交わる事、且つて適はざるものなり。それを如何にと云ふに、生得マチリマウニヨの約束は、互ゐに何時まで別るゝ事有るまじきとの固き契りなればなり。

弟:これ余りに厳しき御定めなり。その故は、互ゐに気に合はざる事あらん時も、離別する事適はざるとの御教えなるによってなり。
師:これ最も固き事なりと見ゆると雖も、マチリマウニヨの縁を結ぶ時、デウスより與へ下さるゝそのガラサの御力を以て、それより夫婦、互ゐに深き大切に結び合ひ、沿ひ遂ぐる爲に大きなる御力を與へ下さるゝものなり。その證據歴然なり。何れのキリシタンも、このサカラメントを受け奉るを以て、夫婦の間互ゐに無事にして身終はるまで添ゐ届くる事、これその御力によっての事にあらずや。

弟:デウス、何とて一度縁を結びて、より離れざる樣に定め給ふや。
師:如く、この定め置き給ふ事、別にあらず。互ゐに科無くして子孫繁盛し、また、その御掟に、隨ひ奉るを以て、その子妻たるまでも後生を扶け、その上夫婦互ゐに一身の如く思ひ合ひ、養生あらん時、力を添へ合はんが爲なり。
この儀を達せん爲には、仮初めにては適はざる儀なれば、長く契らずんば有るべからず。
もし離別する事、ココロのまゝなるに於ゐては、男は女にココロを隔て、女は男にココロを置き、夫婦の内、少しも安き事無く気遣ゐのみたるべし。その他、何たる養生あらん時も、互ゐに便りとなる事有るべからず。別して病気の時節、または難儀の時も、力無く頼む所無かるべし。
その上また、我が子を育つる事に付きても、樣々の不足出來べし。それを如何にと云ふに、もし気に合はざる時、ココロのまゝに離別する事適ふに於ゐては、その砌、男子は父に伴ひて継母に沿ひ、憂き目を堪へ、また、女子は母に着き行き、継父に遭ひて如何ほどの不如意をか凌ぐべき斯樣の不足無からん爲には、何時までも絶へぬ契り無くんば、その子を眞實の深き大切を以て不足無き樣に育つる事適ふべからず。
尚この上に思案を加ふるに於ゐては、この上の理に漏れたる事、世に有るべからず。
故、如何にとなれば日々契り置きし夫婦の中を、少しの軽き事によりて別れ、または別の女、別の男にココロを移して我が眞實の定まりたる夫婦の中を裂くる事、これを道理と云はんや。道に外れたる事の最上なり。所詮それより出る所の損を見るに、まづ何時までも添ゐ届くまじきと思はば、互ゐの謝り気違ひになる事を堪る事、有るべからず。
さてまた、その離別より、出る所の損を見るに、まづその親類に互ゐに遺恨を含ませ、或ゐはその無念を散ぜんが爲、殺害に及ぶか、またはその一門互ゐに義絶して思はざるに怨敵となり、また、その眷属の内より、力無き孤児となる者これ多し。
その試し、キリシタンにあらざるゼンチヨの上に、明らかに現るゝものなり。

弟:これみな最も優れたる道理なり。然り乍ら是の如くの厳しき御掟は、ヒトによって身の爲に大きなる仇なりと思う者、多かるべし。その故は、我が気に逆ひ、ココロに適はざる者に、何として添ゐ遂ぐべきや。斯樣の者を妻と定め、夫婦の契約せんよりは然じ。妻を帯せざらんにはと思う者多かるべし。
師:その普請最もなり。然りと雖も、惣じて世間の法にも何の法度をなりとも定むる時、萬人の徳を量りて、その規則を置くものなり。もしその内にヒト有りて、萬人の爲には、さもあらばあれ、我が爲にはこの方式不可なりと思う者も有るべし。例えば、國中より他國へ八木(米)を出す事有るべからずとの法度を置かるゝ時、売買をもっぱらとする者の爲には、不祥なる方式たりと雖も、その國の爲には豊饒の基なり。その如く、デウスより授け給ふ御掟も、遍くヒトの徳と成べき事を量り給ひ、理に隨ひて定め置き給ふものなり。
このマチリマウニヨのサカラメントを以て、何れもヒトみな深き徳を得んと雖も、その内にも理に漏れ、甘きを嫌ひ、苦きを好む者も少々これ有るべし。

弟:只今の理を承わりて、より分別を明らめ申す。無き今また、尚ココロの疑ゐを晴らし申すべき爲、一の事を尋ね申すべし。
右の別なるに於ゐては、例えその男か、また、女か身持ち乱行にして御掟にも隨はず、別に妻を帯するか、また、差は無しと雖も二人の内、何れにても生得しね惡しき者なるに於ゐては、何とすべきや。それとても離別する事適ふまじきや。

師:これ最も肝要の普請なり。如く、このなるに於ゐてはヱケレジヤの御定めの旨に任せ、互ゐにその中を裂くる事も適ふなり。然り乍ら離別しても、世のヒトにまた、寄り合う事は適はず。これも道理によっての事なり。これを如何にと云ふに、斯樣の惡戯成者は、また、別の妻を持つと雖も、また、右に沙汰せし所の深き損失をしだすべきによって、二度その災ゐなからんが爲に夫婦を帯せざる樣にと定め置き給ふなり。

弟:これ優れたる理なり。今この儀を聽聞して速やかにココロの闇を晴らし申すなり。
只今の御教えの理に基づきて思案を加へて見るに、眞にその離別より出來所の損失は莫大にして、御掟に隨ひ、身を修むるより求め得る大徳は、なか/\挙げて數うべからず。
これを以て一番の†オビリガサン(義務)の甚だ肝要なりと云ふ儀は良く分別しぬ。今また、その二番の、オビリガサンを示し給へ。
師:これ前の儀にあらず。夫婦その定まりたる子孫繁盛の道をマチリマウニヨの御掟の旨に任せ、確かに守るべし。夫も女も我が妻にあらざる他に、肌を触るゝ事、これ最も重犯(ぢうぼん)なり。

弟:三番のオビリガサンは何れぞや。
師:マチリマウニヨのサカラメントを以て、デウスより互ゐに離れざる傍輩(はうばひ)と定め給へば、互ゐにその力足らざる所にココロを添へ、また、その子に、要るべきほどの事を與へ、我が子を育つるに少しも忽(ゆるがせ)に有るべからずとの御掟。是なり。

弟:この七のサカラメントスは、後生を扶かる爲に授からずして適はぬ事なりや。
師:末の二ヶ條は、ヱケレジヤに於ゐて無くして適はぬ事なりと雖も、面々我が身の望みなければ、受けずして適はぬ事にはあらず。その故は、誰にてもあれオルデンを受けよ。または夫婦を定めよとのオビリガサンにあらず。ただその身の望みに任せらるゝものなり。初め五は、受けずして適はざるサカラメントなり。その時節に臨んで受け奉る事、適ひ乍ら受けざれば科なり。適はぬ時は科にあらず。

弟:これらのサカラメントは、度々授り申す事適ふや否や。
師:バウチズモとコンヒルマサン、オルデン。この三のサカラメントは、一度より他に授からず。その他は度々授り申す事適ふなり。中にもペニテンシヤと†サンチシモヱウカリスチヤのサカラメントは、我らが爲に第一肝要なる事なれば、度々授り奉る事もっぱらなり。

弟:然らばマチリマウニヨのサカラメントも、度々授り申す事適ふべきや。
師:誰にてもあれ、マチリマウニヨを受けたる妻の存命の間に別の妻を定め、このサカラメントをまた、改め授くる事少しも適はず。然れども夫婦の内一人死ぬるに於ゐては、改めて授くる事も適ふなり。その他、ヱステレマヴンサンのサカラメントを授りたるヒト、その煩ゐより快気(かいき)を得て、以後また、臨終に臨まん時、授くる事も適ふものなり。

第十二 この別キリシタンに当たる肝要の條々
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